わたしの皮膚科診療と、そのルーツ
NO.142 2006/1/15

皮膚科医として私が歩いてきた道 

  皮膚科医になって既に50年は過ぎていますが、2006年1月1日で私は丁度傘寿を迎えました。
  九大卒業後東京逓信病院にてインターン終了、そのまま同病院皮膚科に勤務することになり、当時新進気鋭な恩師小堀辰治先生のご指導を受けることになりました。
 入局と同時に当時としては日本でいち早く副腎皮質ホルモン療法の研究に着手した共同研究者の一員となり、一方、アメリカで発展した新しい軟膏療法の手ほどきを受けました。そして、「副腎皮質ホルモンの円形脱毛症に対する治療効果、特にその奏効機序について」を主論文に審査をうけ、東京大学より学位を授与されたことは、わたしの生涯で忘れることのできない幸せなことの一つでした。 ついで群馬大学医学部助教授として赴任、山碕教授より記載皮膚科学の原点に触れたドイツ流の厳しいご指導を受けました。この北関東における研究生活3年間の様々な体験と、前任地である東京逓信病院での8年間のいわばアメリカ流の自由な研究体験がミックスされて、今日の自分があるということを、今更ながら感謝しています。
  群馬大学を辞した後、東京新橋での5年間の開業生活は、全国理美容ネットワークにのった特殊な体験でしたが、父の度重なる脳梗塞の発作のために遂に故郷別府に帰って開業することになりました。
  開業以来、地域医療の第一線で多くの患者さんに接し、皮膚に関する啓蒙と、幅広い皮膚科医療で地域社会に密着することを夢見てこれまでやってきましたが、この間、別府市医師会理事を3期6年、大分県医師会常任理事を3期6年、別府市医師会監事を2期4年務め、わたしとしてはまたとない経験を重ねることができました。
  また、皮膚科開業医は如何にあるべきかということについて、学会シンポジウムその他で意見を述べてきましたが、とくに皮膚科の専門性を生かして包括医療をきめ細かく行ない、地域に密着することを大切にして来ました。

鳴海クリニックの診療方針とそのルーツ

 当クリニックの診療方針は次に述べる通りですが、元来わたしは自分の性格から、世間では厳しい医者として通っています。なぜこのようになったのか、そのルーツを探ってみますと、以下述べるようなことが考えられます。



幼年時代の追憶
 人の話によると、わたしは母にとくに厳しく育てられたようですが、そのような厳しさよりも、幼年時代のわたしに英語でホーム・スイート・ホームを、フランス語でマルセイユを口伝えに教えてくれた母の優しさの方が記憶に残り、その後何10年も経つ現在においても、なお不完全ながら口ずさむことができます。
一方、父は小学生のわたしに昆虫採集の仕方を丁寧に教えてくれました。また、この頃たまたま父が学生時代に書いた顕微鏡のスケッチ画を何枚か見る機会があり、妙に感動したことを思い出します。このように、自然科学への憧憬は父より、感性の育みは母より受け継がれていることを今更のように思い出します。


高等学校時代の追憶
 第五高等学校時代の後半、終戦後の1、2年間にあたりますが、わたしは動物学の先生のご指導で、余暇を利用して約70匹の「みみず」の解剖をしたことがあります。生殖器や盲嚢の形態を詳細にしらべ、比較解剖学の片鱗に触れて、妙に気を引かれたことを思い出します。

大学に進学して
 その後九州大学医学部へ進みましたが、一年の夏休み、解剖学教授のご指導で肩甲骨の計測をしました。教授のご意向で84体の計測の結果を小論文(英文)にまとめましたが、戦後の混乱に紛れて未発表に終ってしまいました。
 しかし、骨の形が筋肉や関節の運動といかに関係が深いかを如実に知らされたものでした。

なぜ皮膚科医になったか
 皮膚科医として既に50年は過ぎましたが、わたしがどうして皮膚科を選んだのか考えてみますと、以上述べてきましたように、父から教わった昆虫採集をきっかけに、高等学校時代には「みみず」の解剖をしたり、大学一年の放課後には肩甲骨の計測をしたりして、自然にものを見る訓練をさせられてきました。
また、わたしは一時、精神科を選ぼうと考えたこともありましたが、なぜ母校に入局しないで東京に出てきたか、その一つに経済的な原因もありましたので、東京逓信病院でインターンをすることになって色々考えた末、当時の中島病院事務長が大分県佐伯出身であったこともあり、事務長の紹介もあって皮膚科部長、小堀辰治先生の教えを受けることになりました。
そして、入局以来病室の医局で机をならべ、四六時中わたしを細かく指導して下さったオーベンの平出先生は、入院患者さんを極めて丁寧にみられる方で、早朝から色々一緒に検査をしたり、病歴を細かく書くことを教えられたり、患者さんが亡くなると、病理の先生と一緒に解剖に立ち会われるなど、皮膚科医として本当に全身をよく診られる先生に私は感化されました。



これは数あるゲーテの詩の一つですが、私はこの詩が好きです。(すべてのものの中で最も難しいものはなにか、それは、あなたの前にあるものを見るという、最もたやすいと思われることであるという意味) この詩をはじめて知ったのは、丁度インターンの頃でしたから、あるいはこれが皮膚科医を志すきっかけになったかも知れません。

また、わたしは特に皮膚と「こころ」の問題を考えていますが、前述のように一時精神科を志望したことと関係があるように思えてなりません。皮膚と神経とは発生学的にも外胚葉という同一のオリジンであることから、切ってもきれない関係にあることを今更のように思う次第です。

 この1年を振り返ってみても、昨年4月にはJR宝塚線の脱線事故、11月に発覚した耐震強度偽装事件など、社会での役割に誇りを持つ職業人としての倫理を磨くことの大切さが全く忘れられていますし、すべての面において厳しさが失われています。
商店街の入口に掲げられた“自転車を乗り入れないで下さい”という簡単な交通道徳でさえも今や完全に無視され、乗り入れることが当たり前のようになっている時代です。
些細なことですが、このようなことの積み重ねで世の中がすすんでいるのが現状です。
  これらは、もとを正せば子どもの時のしつけ、教育に原因があるわけでして、子どもの時に受けた強烈な印象や感動が、その後の人生を左右することにもなり、「三つ子の魂百までも」ということわざの大切さを今更のように痛感する昨今です。

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