奉仕の人・米山梅吉を想う
NO.66 2002/10/24

 常々、人の一生は、生まれ育った環境と、いろいろな人との出会い、中でもその過程における強烈な印象または感動が、しばしばその人の一生を左右する運命的な出会いになるということを痛感する昨今ですが、このような意味で、米山梅吉翁の人となりを考えてみたいと思います。(以下、敬称を略させていただきます)



米山梅吉の生い立ちと,その生涯

・梅吉は、慶応4年2月4日、東京芝田村町の武家屋敷で、大和国高取藩士・和田竹造の三男として生まれました。母は、うたと言って三島大社の神官の娘で、当時としては最も教養のある家庭に生まれたことになります。
・5歳の時に父を失った梅吉は、その後母の実家である伊豆の三島に移り、母の手一つで育てられました。

梅吉が幼少の時に通った学校映雪舎
・8歳のとき三島から田圃伝いの長泉村の小学校(映雪舎)に入学しました。それは梅吉の兄が映雪舎の先生をしていたからでした。 
 この学校は、普向寺というお寺を校舎に代用したもので、その初代校長は久我頑量という老年のお坊さんで、漢籍に精しい人でした。 梅吉はこの先生について漢学を修めました。
 映雪舎という校名は土地柄を現しており、富士山が真正面に見える眺望日本一のところで、富士の霊峰を仰ぎ、千古の雪に映える学び舎が純真な少年に与える精神的影響は、計り知れないものがあったと思われます。
 教養ある両親から受けた素質もあってか、梅吉の成績は抜群で身だしなみもよく、人との挨拶もよくしたそうです。神童の誉れが高く、おまけに美少年であった梅吉は、土地の旧家・米山家の養子に懇望されました。 明治12年のことで、以来、米山梅吉と名乗ることになりました。

梅吉の沼津中学校での活躍
・映雪舎で尋常高等小学校の課程を修了した梅吉は、養父の配慮で明治14年沼津中学校に入学しました。それは現在の県立沼津中学校とは全く別のもので、旧幕臣のために造られた沼津兵学校の解散したあとのものでした。
 明治政府が誕生したために、この兵学校は明治4年に東京に移転してしまいましたが、その際、付属小学校の残留生徒たちの為の集成舎ができ、やがてそれが沼津中学校に発展したのです。こういう歴史から、教師には人材が多く、旧幕臣の学者達が教師を務めていいました。とくに梅吉は、初代校長の江原素六先生から多大の感化を受けました。
・こういう由緒ある学校で、梅吉は中学生として英・漢・数をギッチリ身につけました。とくに漢学は四書の輪読で個人教授を受けたので、この時代に梅吉は既に漢詩を作ることができました。それで、当時東京で発行されていた『頴才新誌』という雑誌によく投稿していましたが、これに一番多く掲載されたのは梅吉と夏目金之助(後の夏目漱石)でした。
・このように、梅吉は学校の成績はよく、友達も多かったので、楽しい中学生生活を送ることができましたが、そうするうちに将来を考えるようになりました。そして、このままで行くと、旧家を継いで地主として一生を過ごさねばならない、こうした前途に対する煩悶から、ついに家出を考えるようになりました。
・沼津ではもう学ぶものは学んだ、この上は上京して、どんな苦学をしてでもそれ以上の勉強をしたいという願望が、ついに彼に無断家出を決行させてしまったのです。

東京苦学時代
・16歳の梅吉は一人箱根を越えて横浜に出、そこから初めて汽車に乗り、3日がかりで東京に着きました。(明治16年)
・沼津中学の先輩をたよって、梅吉少年は銀座の江南学校に入学しましたが、もっと深い勉強がしたいと、間もなく芝の土居光華先生の塾に移りました。この塾で得た大きな収穫は藤田四郎と懇親を結ぶことができたことです。(後年梅吉が三井銀行に入社することができたのは、この親友藤田四郎のお陰でした。) しかし、梅吉は満足しませんでした。
・アメリカへ行けばお金がなくても、スクールボーイをしながら学校へ通えることを知った梅吉はアメリカに行って勉強をすることを考えはじめました。そこで、苦学生の梅吉少年はしばらく学問をあきらめ、東京府の吏員(公務員)試験を受けて合格、働いてアメリカへ行くお金を貯めることにしました。
・アメリカへ行くため、福音英語学校の夜学や東京英和学校に通って英語を習いました。
・だまって、米山家を出てきた梅吉は、ある日米山家を訪ね、あやまり、すべてを許してもらい、アメリカへ行くことも了解してもらいました。
・明治20年10月、梅吉は米山家の養子となり入籍しました。そして、翌年、親兄弟に見送られてアメリカへ出発しました。

滞米8年 
・メソジスト派の福音会をたよってアメリカへ渡った梅吉は、サンフランシスコに滞在しました。ここには日本から40〜50人の青年がいろいろな志をもって身を寄せていました。
・このころ東京英和学校(後の青山学院)でお世話になった本多庸一先生もアメリカに来ていました。ある晩、本多先生を訪ねた梅吉は、先生が火鉢の灰の上に「巧遅拙速」となにげなく書いたのに気づきました。鋭い梅吉は「まずく速いより、遅くても良いほうが良い」といさめられたことを悟りました。
・江戸時代、鎖国をしていた日本に開国をすすめた提督ペリーの伝記を読んで、梅吉はペリーを尊敬していました。それで、後にペリーの生地ニューポートを訪ねました。
・このころ、学費をもってアメリカへ行く青年は殆んどおりませんでした。アメリカには貧しい青年のために学問の道が開かれていました。 こうした学生はスクールボーイと呼ばれ、住む部屋を与えられ、仕事の合い間に学校へ行くことが許されていました。 梅吉はこの仲間に入って働きながら勉強しました。
・梅吉は、福音会関係のハリス監督の推薦でオハイオ州ウェスレアン大学へ入学、さらにニューヨーク州シラキューズ大学で法学を学びました。 学資を稼ぎながらの苦しい8年間でしたが、この間、梅吉は世界のことにふれ、いろいろなことを学びました。 

帰国後の生活
・明治28年、梅吉翁はアメリカから帰国しました。新聞記者を目指していた梅吉は、アメリカで書いた原稿「提督彼理」(提督ペリー)を出版しました.この本の題字は勝海舟に書いてもらっています。このころ、梅吉は勝海舟と親しく、榎本武揚、福沢諭吉とも交友がありました。
・明治29年10月、梅吉は米山はると結婚しました。新聞記者になることをあきらめた梅吉は、英語のできる人を求めていた日本鉄道会社に入社しました。しかし、生活は楽ではありませんでした。

実業家への歩み〜とくに三井銀行での活躍
・梅吉は長女が生まれたのを機に、旧友藤田四郎の義父・井上馨の推薦で三井銀行へ入行することになりました。明治31年31歳の時でした。 この頃、政界では伊藤博文、陸軍では山形有朋、財界では井上馨と言われていました。 生活は安定しました。2年目には上司から認められ、優秀な3人に選ばれ、2年かけて欧米の銀行を見て学んでくる役を命じられました。
・同行の3人でまとめた報告書は、三井銀行ばかりでなく日本の銀行を改めるものとなりました。 いつしか梅吉は三井の米山ではなく、日本経済界の代表者の一人と見なされるようになりました。
・大正3年、47歳の時、「新隠居論」という考えを発表しました。これは、年寄りは後進に仕事を譲り、これまでの経験を生かして社会に尽くすことをすすめるものでした。

日本にロータリー・クラブをつくる(東京ロータリー・クラブ誕生)
・大正9年、53歳のとき、梅吉はアメリカで創立された奉仕団体ロータリークラブを日本に設立し、会長になりました。そしてロータリー会員としての奉仕の生活―新隠居論の実行に力をそそぎはじめました。

その他の諸活動
・大正10年、梅吉は米英訪問実業団に加わり、アメリカへ向かいました。このときフランクリン・ルーズベルト大統領、ロックフェラー研究所の野口英世博士と会いました。
・梅吉は、「銀行行余録」、「常識関門」、「看雲録」など多くの本を出版しました。これらの本の中に梅吉のすぐれた考え方がうかがえます。
・大正13年、日本ではじめての信託会社、三井信託株式会社を創立しました。 
・昭和6年、梅吉は郷里の長泉小学校に図書館と本を寄付しました。 これは「米山文庫」と呼ばれ、人々に親しまれ利用されるとともに、村人の自慢の一つとなりました。
・昭和和9年三井家が協力して設立した「三井報恩会」の理事長を務めるようになり、梅吉は三井報恩会の仕事に専念するようになりました。 三井報恩会は貧しい人々を救うため、いろいろな活動をしました。 学問の研究や実験に協力したり、助けた人は数えきれません。すべて奉仕の精神を持った梅吉翁のり―ドによるものでした。

とくに晩年における活動 
・梅吉は1936年(昭和11年)三井信託会長を辞任し、経営の第一線から退きましたが、三井報恩会の理事長は1944年(昭和19年)まで続けており、その後も三井報恩会評議員会会長として、三井報恩会に関わっています。 
・1937年(昭和12年)私財を投げうって緑岡小学校(青山学院初等科の前身)を創り、新しい教育を手がけました。そして、あたたかい雰囲気の中で、正しくのびやかに信頼できる人間教育をしたいと考え、梅吉校長は毎週一回 「人々にしてほしいとあなたがたの望むことを、人々にもその通りにせよ」 という聖書の言葉を読み、それについて話をしました。
・1938年(昭和13年)貴族院議員に勅選されました。
・1942年(昭和17年)には勳四等に叙せられ、瑞宝章を受賞しました。 
・ 1940年(昭和15年)外国との戦争がこじれ、ロータリークラブの方針の一つである国際性が、軍部ににらまれるようになり、クラブを解散しなければならなくなりました。
・しかし、戦時中は「水曜クラブ」と名を変え、ロータリーの精神は受け継がれました。
・晩年、病気がちだった梅吉は、無理がたたり、 昭和21年4月28日、長泉村下土狩の別荘で永遠の眠りにつきました。78歳3ヶ月でした。

補遺  米山梅吉翁は最後までクリスチャンにはなり切れなかった。

 米山梅吉翁が生涯の恩人であった本多庸一師は、日本メソジスト教会初代監督となり、キリスト教の重鎮として活躍した人であるが、東京英和学校時代についでアメリカ留学中でも特に指導を受けた。更にハリス監督の強い勧めがあったにも拘わらず、遂にキリスト教信者にはなりきれず、平素俗人だと自称していたが、実は「心の奥に強い敬神の念がひそんでいて、せめて子ども達だけでもという気持ちがあったのであろう」と、三男の桂三氏は述懐している。
 昭和7年11月、青山学院は創立50周年を迎えたが、功労者の石坂院長は老齢をもって勇退した。 その後任に米山梅吉を推す動きがあったが、意向を打診された梅吉は、「自分はクリスチャンではない。酒も煙草もやる俗人だ。とてもその任ではない」と断り、次の院長に阿部義宗氏を強く推したとされている。 
そして、1946年(昭和21年)4月28日、78歳3ヶ月で逝去した梅吉の戒名は「聖徳院殿梅園浄香居士」となっている。
 因みに、昭和30年3月31日、81歳で逝去した春子夫人の葬儀は4月2日麻布霞町のカトリック教会で行われ、マリア・エリザベートを贈られている。

参考資料 

1.米山記念奨学会のあゆみ:ロータリー日本60年史(207〜222頁)
   昭和57年10月1日発行・ロータリーの友事務所 
 
2.ロータリー米山記念奨学会史(1967〜1992):
   1992年12月29日発行・財団法人 ロータリー米山記念奨学会 

3.米山梅吉と日本のロータリー:
   昭和52年12月30日発行・著者 長井盛至 

4.無我の人 米山梅吉:
   昭和60年8月1日発行・著者 内田 稔 

5.米山梅吉伝 〜創意と奉仕の一生〜:
  平成7年6月発行・(財)得愛会理事長 福島親比古・著者 佐々木 邦  

6.長泉町が生んだ奉仕の人 米山梅吉物語:
   1994年 ふれあいカレンダーより(長泉町)
 
7.人物写真集 米山梅吉翁
   平成9年4月28日発行 : 執筆・編集・発行人 米山 聡

8.その他 ホーム・ページ(www.rotary-yoneyama.or.jp)より

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