皮膚科医として、この道50有余年
NO.303 2007/9/16

1.皮膚科医として私が歩いてきた道 

 皮膚科医になって54年になりますが、2007年1月1日、わたしは81歳になりました。
・東京逓信病院時代:昭和28年(1953)1月〜昭和35年(1960)3月
 昭和26年(1951年)九大卒業後東京逓信病院にてインターン終了、そのまま同病院皮膚科に勤務することになり、当時新進気鋭な恩師小堀辰治先生のご指導を受けることになりました。
 入局と同時に当時としては日本でいち早く副腎皮質ホルモン療法の研究に着手した共同研究者の一員となり、一方、アメリカで発展した新しい軟膏療法の手ほどきを受けました。そして、「副腎皮質ホルモンの円形脱毛症に対する治療効果、特にその奏効機序について」を主論文に審査をうけ、1959年 東京大学より学位を授与されたことは、わたしの生涯で忘れることのできない幸せなことの一つでした。
・群馬大学時代:昭和35年(1960)4月〜昭和38年(1963)9月
 ついで1960年、群馬大学医学部助教授として赴任、山碕教授より記載皮膚科学の原点に触れたドイツ流の厳しいご指導を受けました。この北関東における研究生活3年間の様々な体験と、前任地である東京逓信病院での8年間のいわばアメリカ流の自由な研究体験がミックスされて、今日の自分があるということを、今更ながら感謝しています。
・東京皮膚科診療所時代:昭和38年(1963)10月〜昭和43年(1968)12月
 昭和38年(1963年)9月、群馬大学を辞した後、同年10月より昭和43年(1968年)
12月までの東京新橋における5年間の開業生活は、全国理美容ネットワークにのった特殊な体験でした。
・鳴海皮膚科クリニック:昭和43年(1968)12月〜
 その後、父の度重なる脳梗塞の発作のために遂に故郷別府に帰って開業することになりました[診療所開設は昭和43年(1968年)12月24日、翌44年(1969年1月13日より診療開始)。
・医療法人社団 鳴海クリニック:平成8年(1996)12月〜 現在に至る。
 開業以来、地域医療の第一線で多くの患者さんに接し、皮膚に関する啓蒙と、幅広い皮膚科医療で地域社会に密着することを夢見てこれまでやってきましたが、この間、別府市医師会理事を3期6年、大分県医師会常任理事を3期6年、別府市医師会監事を2期4年務め、わたしとしてはまたとない経験を重ねることができました。
 また、皮膚科開業医は如何にあるべきかということについて、学会シンポジウムその他で意見を述べてきましたが、とくに皮膚科の専門性を生かして包括医療をきめ細かく行ない、地域に密着することを大切にして来ました。
 
※ 平成8年(1996)6月:日本皮膚科学会功労会員

2.私の皮膚科医としてのルーツ

 以上、皮膚科医として歩いてきた道について述べましたが、どうして私は皮膚科医になったのか、そのルーツを探ってみたいと思います。

※ 幼年時代の追憶
 人の話によると、わたしは母にとくに厳しく育てられたようですが、そのような厳しさよりも、幼年時代のわたしに英語でホーム・スイート・ホームを、フランス語でマルセイユを口伝えに教えてくれた母の優しさの方が記憶に残り、その後何10年も経つ現在においても、なお不完全ながらこれらを口ずさむことができます。
 一方、父は小学生のわたしに昆虫採集の仕方を丁寧に教えてくれました。また、この頃たまたま父が学生時代に書いた顕微鏡のスケッチ画を何枚か見る機会があり、妙に感動したことを思い出します。このように、自然科学への憧憬は父より、感性の育みは母より受け継がれていることを今更のように思い出します。

※ 高等学校時代の追憶
 第五高等学校時代の後半、終戦後の1、2年間にあたりますが、わたしは動物学の先生のご指導で、余暇を利用して約70匹の「みみず」の解剖をしたことがあります。生殖器や盲嚢の形態を詳細にしらべ、比較解剖学の片鱗に触れて、妙に気を引かれたことを思い出します。

※ 大学に進学して
 その後九州大学医学部へ進みましたが、一年の夏休み、解剖学教授のご指導で肩甲骨の計測をしました。教授のご意向で84体の計測の結果を小論文(英文)にまとめましたが、戦後の混乱に紛れて未発表に終ってしまいました。 しかし、骨の形が筋肉や関節の運動といかに関係が深いかを如実に知らされたものでした。

※ なぜ皮膚科医になったか
 皮膚科医として既に50年は過ぎましたが、わたしがどうして皮膚科を選んだのか考えてみますと、以上述べてきましたように、父から教わった昆虫採集をきっかけに、高等学校時代には「みみず」の解剖をしたり、大学一年の放課後には肩甲骨の計測をしたりして、自然にものを見る訓練をさせられてきました。
 また、わたしは一時、精神科を選ぼうと考えたこともありましたが、なぜ母校に入局しないで東京に出てきたか、その一つに経済的な原因がありました。
 東京逓信病院でインターンをすることになって色々考えた末、当時の中島病院事務長が大分県佐伯出身であったこともあり、事務長の紹介もあって皮膚科部長、小堀辰治先生の教えを受けることになりました。
 そして、入局以来病室の医局で机をならべ、四六時中わたしを細かく指導して下さったオーベンの平出先生は、入院患者さんを極めて丁寧にみられる方で、早朝から色々一緒に検査をしたり、病歴を細かく書くことを教えられたり、患者さんが亡くなると、病理の先生と一緒に解剖に立ち会われるなど、皮膚科医として本当に全身をよく診られる先生に私は感化されました。

Was ist das Schwerste von Allem?
  Was dir das Leichteste duenket.
Mit den Augen zu sehen,
  Was vor den Augen dir liegt.

 これは数あるゲーテの詩の一つですが、私はこの詩が好きです。(すべてのものの中で最も難しいものはなにか、それは、あなたの前にあるものを見るという、最もたやすいと思われることであるという意味) この詩をはじめて知ったのは、丁度インターンの頃でしたから、あるいはこれが皮膚科医を志すきっかけになったかも知れません。
 また、わたしは特に皮膚と「こころ」の問題を考えていますが、前述のように一時精神科を志望したことと関係があるように思えてなりません。皮膚と神経とは発生学的にも外胚葉という同一のオリジンであることから、切ってもきれない関係にあることを今更のように思う次第です。

3.新しい夢の実現   

1)皮膚科医療の将来とジェイ・エヌ スキンケアセンターの設立(1991年8月)

 今や時代の要求は治療よりもケアにあります。皮膚病を治すことは勿論大切ですが、健康な肌をつくるためのスキンケア、更に、皮膚を美しく見せるためのテクニックなどが必要になってきました。
 一方、従来、皮膚科医は皮膚病を治すだけで、お化粧や美容は専ら美容師に任せきりでした。 然しこれは間違いで、皮膚科医は皮膚病の治療は勿論のこと、更に進んでスキンケアまで手掛ける必要に迫られてきています。
 つまり、今後は、皮膚に関する医学と美容のドッキングが必要であり、皮膚科学に立脚した美容が大切と思うわけであります。
 このようなことから、当クリニックでは,治療とケアを一貫して行うために、有限会社ジェイ・エヌ スキンケアセンターを併設して,皆様のご期待に沿うことにしました。(平成3年8月20日)

2)新しい治療法の導入

※ 凍結療法:1974年(昭和49年)以降
 液体窒素による普通の「いぼ」や老人性の「いぼ」等の治療
※ レーザー治療
・ 低反応レベルレーザー治療(平成5年2月以降)
 とくに帯状庖疹後の神経痛や、通常の治療でてこずっている痒疹などの『慢性皮膚疾患』『しろなまず』『円形脱毛症』などの治療に応用
・ 高反応レベルレーザー治療(平成12年6月以降)
 とくにアザ、シミ、ホクロの治療に応用、とくに2000年6月から大分県では始めての、九州では3番目のQスィッチ・ルビーレーザーを導入して、太田母斑という特殊なアザの治療を始めました。また、炭酸ガスレーザーも導入してイボやホクロの治療が容易になりました。

3)新世紀に向けて理想の全身シャンプーをつくる(2001年1月)

 スキンケアの第一歩である皮膚の清浄、とくに入浴の問題は、温泉地・別府に住む人々にとっては切実な問題であり、常にわたしの脳裏から離れられない問題でした。
 過去3回にわたる入浴調査の結果を生かし、何時かは理想的なシャンプーをつくりたいと思っていましたが、2001年1月、東京の化粧品メーカーの協力を得て、オリジナルの全身シャンプー(ジェイ・エヌ全身シャンプー)をつくることが出来ました。

※ ジェイ・エヌ全身シャンプーの特徴:   
・『あか』や『よごれ』は取るが、最後の脂気は残し、しっとりと皮膚を保護する。
・温泉のような硬水で使っても、普通の石鹸と違い、肌を荒らさない。
 したがって、アトピーの人も安心して使える。
・普通の中性洗剤と違って、泡は分解しやすく、公害を残さない。

4)皮膚に関する啓蒙の推進

(1)皮膚に関する小著発行
 地域の人々が皮膚に関する認識を深め、皮膚が如何に大切な器官であるかを知っていただくために、皮膚ならびに皮膚科のPRを大いにする必要がありますが、昭和61年5月(1986年)、小冊子「皮膚、この大切な器官」の発行についで、下記の表のように次々に小冊子を発行して、その目的を果たしてきました。

1.皮膚,この大切な器官   初 版  昭和61年5月(1986年)
                   第2版  平成8年3月 (1996年)
2.お化粧と皮膚          昭和63年10月 (1988年) 
3.皮膚と「こころ」          平成5年8月  (1993年)
4.スキンケアのために      平成11年1月 (1999年)
5.「みずむし」を治す        平成11年7月 (1999年)
6.温泉と皮膚            平成13年7月 (2001年)
7.皮膚科診療のために      平成15年1月 (2003年)
8.皮膚を心底きれいにするには   平成18年1月 (2006年)

(2)ホームページ「クリニックレポート」の開設 
 また、一般の方の啓蒙に役立つべく、平成13年(2001年)8月1日より、ホーム・ページ(http://www.narumi-clinic.jp)を開き、クリニック・レポートとロータリー探究の2本立てで更新を繰り返してきました。
 その意図は、ロータリアンである私が、皮膚科医という職業分類を生かして如何にロータリーと取り組んでいるか、そのサンプルを提供してご参考に供したいと思ったからです。
 皮膚科医50年の経験に新しい知識を加え、時宜に適した話題をテーマに主としてありふれた皮膚病についてわかりやすく解説するとともに、わたしの考え方を皆さんによく知っていただくために、開設以後はじめは毎週1回、2年目から10日に1回、最近は月1〜2回の更新で6年になりますが、平成19年(2007年)8月2日で161回に及んでいます。
 このたび、ホームページ開設6周年を記念し、当クリニックがとくに力をいれ、自信をもってお応えできる下記3つの治療を選び、これらを整理して小冊子を発行し、これを患者さんのために用意して“Nothing but the best”の皮膚科診療に役立てることにしました。
      
当クリニックにおける皮膚科診療の実際
(機縫▲肇圈疾皮膚炎を治す
(供「にきび」を上手に治すには
(掘縫譟璽供室N鼎量ノ蓮

5)夜間診療の実施(2002年10月)

・アンケート調査の結果、患者さんの要望に応えて2002年10月21日より開始
・月、火、水、金曜の6時半より8時まで実施しています。

4.皮膚科診療に対するわたしの考え方 
    〜 皮膚科医としてロータリーに生きる 〜

 上述のように、皮膚科医として54年、郷里別府に帰って開業39年になります。またロータリー・クラブに入会して37年になります。

 この37年にわたるロータリーの体験は、更に皮膚科医としての職業奉仕に磨きをかけながら現在に及んでいます。 

 私の職業奉仕は、『常に大所高所より、あくまでも患者さんのために』にあります。
 安易に患者さんの要求に応ずることのみが医師の職業奉仕ではないと思います。
 患者さんのために、常に新しい夢をもち、現時点において最善の治療が提供できるよう、研鑚を怠らないことであります。
 また、医師の倫理と患者の倫理が共に全うされ、はじめて真の医療が行われるわけでして、このような点から健康教育活動が大切と思う次第であります。

 これからの医療は、病気や薬、治し方についての説明をよくすることはもとより、患者さんが自分の病気に対する自覚と、病気を早く治そうという気構えをもって貰うことが大切で、これと平行して病気にならないよう、日頃からの健康教育が何としても必要と思いますし、これが患者さんの為に一番いいのではないかと思う次第であります。
 こうなると、医師の職業奉仕は更に大切で、一層幅のあるものになってくるわけであります。
 このようなことで、皮膚科の専門性を生かした包括医療をきめ細かく行い、常に地域に密着することを考えて来ました。
 そして、皮膚科医は単に皮膚のみならず、場合によっては皮膚を通して人間全体を考え、更には、まわりの環境をも念頭におく必要があることを考えてきました。
 とくに私たち開業医は、地域医療の第一線にあって多くのありふれた皮膚病患者に接するわけですから、これと積極的に取り組み、上手に治せる医師でなくてはなりません。 
 そのためには、皮膚症状並びにその治療経過を細かくみることは勿論ですが、その原因なり、それを治りにくくしている背景を探るため、必要な諸検査を行い、この検査所見を参考にして皮膚症状を診、それに合わせた治療法を選び、治療経過を診なければなりません。
 とくにアレルギー性皮膚疾患の場合にあっては、アレルギーに対する処置は勿論ですが、場合によっては神経、とくに自律神経ならびに内分泌の影響をも考え、言わば三位一体の概念に基づいた治療が必要と思う次第です。

5.私の好きな言葉   

 “To dream a new dream”(新しい夢をみようよ)
 これはロータリーからとった言葉ですが、 ロータリー財団の管理委員会が1990年6月の会合で,ポリオ・プラス・プログラムの目的に関し、次のような声明を採択しました。
 “To dream a new dream”「新しい夢を夢見て・・・ロータリーは相違をつくる」と題するこの声明は、ポリオを単に制圧するだけでなく,根絶するという新しい夢をもって引き続き援助を必要とする諸国にワクチンを供給すると述べ,国際ロータリーは2005年に100周年記念とポリオのない世界,即ちpolio-free worldという二重の慶びを味わうことになるとしたのです。

 “Nothing but the best”(これ以上良いものはない)
 これは「メルセデス・ベンツ 栄光の歴史」という本のタイトルからとったもので、車に関する著述で有名なジョン・ハイリッグは、メルセデスについて次のように言っています。 
 『100年という時代の中で変化しながら、しかも、どの時代にも常に最高の水準を守り続けてきた。これは自動車業界では他に類をみない。それが、メルセデスを“この比類なき存在”と呼ぶ理由である』と。 
 私はこれを読んで、製造業の場合は「これ以上の良いものはつくれない」という気持ちで、サービス業の場合は「これ以上のサービスはできない」という気持ちで努力すること、医師の場合は「患者さんのために現時点で最善の医療を施す」よう努力することであると信じ、これを仕事に生かしています。    

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