別府に生まれ 別府に生きる (その)
NO.513 2014/1/16


 わたしの家は1803年以来回船問屋(屋号・菓子安、代々・菓子屋安兵衛を名乗る)をしていましたが、明治維新以後は菓子安という温泉宿に変わり、わたしはその6代目として、大正15年1月1日この家に生まれました。
 しかし、小学校の大半、中学、高等学校、大学と別府を離れ、医者になってこの別府に帰り、既に45年が過ぎました。
 この正月は88歳の誕生日でもあり、皮膚科医として丁度60年を迎えることになります。そこでこれを機会に、どうしてわたしは皮膚科の医者になったのか 、そのルーツを探ってみたいと思います。

§鳴海家の家系について

5代目の母のこと

 成績優秀だった母は回船問屋の後を継がずに東京菊坂の女子美術学校英文科に進みましたが、祖母ユキエが亡くなったために中退せざるを得なくなり、郷里別府に帰ってきました。しかし、孤独感に堪えられず、良寛に傾倒し短歌を詠むようになり、いろいろ歌集を残しています。

父のこと

 このような母は 東京帝国大学農学部実科を卒業して農学校の教員であった父と養子縁組みをすることになり、当時農学校のあった三重町に移住することになりました。 それで、幼少年時代を大分県三重町で過ごすことになったわけです。

幼少年期の思い出

 このように、わたしは別府生れの三重育ちですが、小さい時は別府と三重の間を往き来していたようです。
 人の話によると、わたしは母にとくに厳しく育てられたようですが、そのような厳しさよりも、幼年時代のわたしに英語でホーム・スイート・ホームを、フランス語でマルセイユを口伝えに教えてくれた母の優しさの方が記憶に残り、その後何10年も経つにおいて現在も、なお不完全ながらこれらを口ずさむことができます。
 また、三重時代 父は小学生のわたしに昆虫採集の仕方を丁寧に教えてくれましたし、その頃たまたま父が学生時代に書いた顕微鏡のスケッチ画を何枚か見る機会があり、妙に感動したことを思い出します。

 さて 皮膚科医として60年になりますが、わたしがどうして皮膚科を選んだのか考えてみますと、以上述べましたように、父から教わった昆虫採集をきっかけに、高等学校時代には「みみず」の解剖をしたり、大学一年の放課後には肩甲骨の計測をしたりして、自然にものを見る訓練をさせられてきたことがわたしの皮膚科医としてのルーツであると思われてなりません。

 この間、温泉と皮膚、スキンケアの第一歩である皮膚の清浄、とくに入浴の問題は、温泉地・別府に住む人にとっては切実な問題であり、常にわたしの脳裏から離れられない問題でした。
 そのきっかけは、久しぶりに郷里・別府に帰り、徳川中期以降湧き出ている由緒ある自宅の温泉に入るようになって、たまたま冬という季節も手伝ってか、肌が荒れてきたことが非常に気になりました。
 わたしの家は1803年以来回船問屋(屋号・菓子安、代々・菓子屋安兵衛を名乗る)をしていましたが、明治維新以後は菓子安という温泉宿をしていました。 その先代が、医者、それも皮膚科医となったわたしに『温泉と皮膚』というテーマを授けて呉れたものと思えてなりません。

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