別府に生まれ 別府に生きる (その掘
NO.515 2014/2/20


今回は前回に続いて「皮膚科医として 別府に生きる」と題して述べてみたいと思います

§皮膚科医として別府に生きる

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※ 幼年時代の追憶
 人の話によると、わたしは母にとくに厳しく育てられたようですが、そのような厳しさよりも、幼年時代のわたしに英語でホーム・スイート・ホームを、フランス語でマルセイユを口伝えに教えてくれた母の優しさの方が記憶に残り、その後何10年も経つ現在においても、なお不完全ながらこれらを口ずさむことができます。
 一方、父は小学生のわたしに昆虫採集の仕方を丁寧に教えてくれました。また、この頃たまたま父が学生時代に書いた顕微鏡のスケッチ画を何枚か見る機会があり、妙に感動したことを思い出します。このように、自然科学への憧憬は父より、感性の育みは母より受け継がれていることを今更のように思い出します。

※ 高等学校時代の追憶
 第五高等学校時代の後半、終戦後の1、2年間にあたりますが、わたしは動物学の先生のご指導で、余暇を利用して約70匹の「みみず」の解剖をしたことがあります。生殖器や盲嚢の形態を詳細にしらべ、比較解剖学の片鱗に触れて、妙に気を引かれたことを思い出します。

※ 大学に進学して
 その後九州大学医学部へ進みましたが、一年の夏休み、解剖学教授のご指導で肩甲骨の計測をしました。教授のご意向で84体の計測の結果を小論文(英文)にまとめましたが、戦後の混乱に紛れて未発表に終ってしまいました。 しかし、骨の形が筋肉や関節の運動といかに関係が深いかを如実に知らされたものでした。

※ なぜ皮膚科医になったか
 皮膚科医として60年になりますが、わたしがどうして皮膚科を選んだのか考えてみますと、以上述べてきましたように、父から教わった昆虫採集をきっかけに、高等学校時代には「みみず」の解剖をしたり、大学一年の放課後には肩甲骨の計測をしたりして、自然にものを見る訓練をさせられてきました。
 また、わたしは一時、精神科を選ぼうと考えたこともありましたが、なぜ母校に入局しないで東京に出てきたか、その一つに経済的な原因がありました。
 東京逓信病院でインターンをすることになって色々考えた末、当時の中島病院事務長が大分県佐伯出身であったこともあり、事務長の紹介もあって皮膚科部長、小堀辰治先生の教えを受けることになりました。
 そして、入局以来病室の医局で机をならべ、四六時中わたしを細かく指導して下さった副部長の平出先生は、入院患者を極めて丁寧にみられる方で、早朝から色々一緒に検査をしたり、病歴を細かく書くことを教えられたり、患者さんが亡くなると、病理の先生と一緒に解剖に立ち会われるなど、皮膚科医として本当に全身をよく診られる先生に私は感化されました。

 Was ist das Schwerste von Allem?
    Was dir das Leichteste duenket.
 Mit den Augen zu sehen,
    Was vor den Augen dir liegt.

 これは数あるゲーテの詩の一つですが、わたしはこの詩が好きです。(すべてのものの中で最も難しいものはなにか、それは、あなたの前にあるものを見るという、最もたやすいと思われることであるという意味) この詩をはじめて知ったのは、丁度インターンの頃でしたから、あるいはこれが皮膚科医を志すきっかけになったかも知れません。

 また、わたしは特に皮膚と「こころ」の問題を考えていますが、前述のように一時精神科を志望したことと関係があるように思えてなりません。皮膚と神経とは発生学的にも外胚葉という同一のオリジンであることから、切ってもきれない関係にあることを今更のように思う次第です。

供ト乕羃憤紊箸靴董△錣燭靴歩いて来た道

 この正月 わたしは88歳になり、皮膚科医として丁度60年を迎えることになります。
 そこで、これを機会にわたしが歩いて来た道を振り返ってみたいと思います。
 ・1951年(昭和26)九大卒業、その後東京逓信病院でインターン終了
 ・1953年(昭和28)1月より東京逓信病院皮膚科勤務
 ・1959年 東京大学より学位授与
 ・1960年(昭和35)4月より群馬大学医学部皮膚科助教授
 ・1963年(昭和38)9月群馬大学を辞して、東京新橋に東京皮膚科診療所開設
  5年間全国理美容ネットワークに乗って開業
 ・1968年(昭和43)12月24日 別府に帰って鳴海皮膚科クリニック開設
 ・1969年(昭和44)1月13日より診療開始
 医師会役員として
 別府市医師会常任理事として
 ・1974年(昭和49)4月1日より3期6年:大分県医師会常任理事として
 ・1980年(昭和55)4月1日より3期6年:別府市医師会監事として  
 ・1986年(昭和61)4月1日より2期4年
 ・1996年(平成 8年)6月・日本皮膚科学会功労会員
 ・2010年(平成22年)5月・日本臨床皮膚科医会特別会員


※ 東京逓信病院時代:昭和28年(1953)1月〜昭和35年(1960)3月
 昭和26年(1951年)九大卒業後、東京逓信病院にてインターン終了、そのまま同病院皮膚科に勤務することになり、当時新進気鋭な恩師小堀辰治先生のご指導を受けることになりました。
 入局と同時に当時としては日本でいち早く副腎皮質ホルモン療法の研究に着手した共同研究者の一員となり、一方、アメリカで発展した新しい軟膏療法の手ほどきを受けました。そして、「副腎皮質ホルモンの円形脱毛症に対する治療効果、特にその奏効機序について」を主論文に審査をうけ、1959年 東京大学より学位を授与されたことは、わたしの生涯で忘れることのできない幸せなことの一つでした。

※ 群馬大学時代:昭和35年(1960)4月 〜 昭和38年(1963)9月
 ついで1960年、群馬大学医学部助教授として赴任、山碕教授より記載皮膚科学の原点に触れたドイツ流の厳しいご指導を受けました。この北関東における研究生活3年間の様々な体験と、前任地である東京逓信病院での8年間のいわばアメリカ流の自由な研究体験がミックスされて、今日の自分があるということを、今更ながら感謝しています。

※ 東京皮膚科診療所時代:昭和38年(1963)10月〜 昭和43年(1968)12月
 昭和38年(1963年)9月、群馬大学を辞した後、同年10月より昭和43年(1968年)12月までの東京新橋における5年間の開業生活は、全国理美容ネットワークにのった特殊な体験でした。  始めは日本毛髪研究会本部付設の東京皮膚科診療所として発足したが、後に独立して経営。

※ 鳴海皮膚科クリニック:昭和43年(1968)12月〜
 その後、父の度重なる脳梗塞の発作のために遂に故郷別府に帰って開業することになりました[診療所開設は昭和43年(1968年)12月24日、翌44年(1969年1月13日より診療開始)。
・ 法人社団 鳴海クリニック:平成8年(1996)12月〜 現在に至る。
 開業以来、地域医療の第一線で多くの患者さんに接し、皮膚に関する啓蒙と、幅広い皮膚科医療で地域社会に密着することを夢見てこれまでやってきましたが、  
 この間、別府市医師会理事を3期6年、大分県医師会常任理事を3期6年、別府市医師会監事を2期4年務め、わたしとしてはまたとない経験を重ねることができました。
 また、皮膚科開業医は如何にあるべきかについて、学会シンポジウムその他で意見を述べてきましたが、とくに皮膚科の専門性を生かして包括医療をきめ細かく行ない、地域密着することを大切にして来ました。

掘ナ棉椶傍⊂覆靴導業後、わたしは如何に皮膚科診療を展開してきたか

 皮膚科医として60年、郷里別府に帰って開業45年になります。またロータリー・クラブに入会して43年が過ぎましたが、この43年にわたるロータリーの体験は、更に皮膚科医としての職業奉仕に磨きをかけながら88歳の現在に及んでいます。 

※ とくに別府に帰ってからの皮膚科診療
 ところで、久し振りに郷里・別府に帰り、徳川中期以降湧き出ている由緒ある自宅の温泉に入るようになると、温泉と皮膚、スキンケアの第一歩である皮膚の清浄、とくに入浴の問題は、温泉地・別府に住み人にとっては切実な問題であり、常にわたしの脳裏から離れられない問題でした。
廻船問屋から温泉宿にかわった先代が、医者、それも皮膚科医になったわたしに『温泉と皮膚』というテーマを授けて呉れたものと思えてなりません。

※ 皮膚科診療に対するわたしの考え方
・私の職業奉仕は、『常に大所高所より、あくまでも患者さんのために』にあります。
 安易に患者さんの要求に応ずることのみが医師の職業奉仕ではないと思います。
・患者さんのために、常に新しい夢をもち、現時点において最善の治療が提供できるよう、研鑚を怠らないことであります。
・そして、皮膚科医は単に皮膚のみならず、場合によっては皮膚を通して人間全体を考え、更には、まわりの環境をも念頭におく必要があることを考えてきました。
・とくにわたしたち開業医は、地域医療の第一線にあって多くのありふれた皮膚病患者に接するわけですから、これと積極的に取り組み、上手に治せる医師でなくてはなりません。
・そのためには、皮膚症状並びにその治療経過を細かくみることは勿論ですが、その原因なり、それを治りにくくしている背景を探るため、必要な諸検査を行い、この検査所見を参考にして皮膚症状を診、それに合わせた治療法を選び、治療経過を細かく診なければなりません。
・とくにアレルギー性皮膚疾患の場合にあっては、アレルギーに対する処置は勿論ですが、場合によっては神経、とくに自律神経ならびに内分泌の影響をも考えた、いわゆる三位一体の概念に基づいた治療 が大切で、 Nothing but the best の治療を念願する次第です。

鳴海クリニックの診療方針
1.皮膚病を全身的に把握。常に皮膚と全身を考えながら診療に当たる。
2.注射、内服、外用剤の選定はきめ細かに、症状並びに治療経過に応じて選択。
3.副作用チェックを忘れないこと。 

皮膚科診療に対する当クリニックのモットーと診療内容の充実
1.当クリニックのモットー
 ・『常に大所高所より、あくまでも患者さんのために』
 ・ 新しい皮膚科診療を求めて
 アトピー性皮膚炎などを一層治りやすくするために、皮膚を中心に 免疫・神経・内分泌の働きを同時に考えた、いわゆる 「三位一 体の新しい皮膚科診療」 の推進
 ・ Nothing but the best の治療

2.わたしが自信をもってお応えできる3つの治療
1) アトピー性皮膚炎を完全に治す
2)「にきび」を上手に治す
3) レーザー治療

3. 診療内容充実のために導入された新しい治療
1) 凍結療法:1974年(昭和49年)以降
 液体窒素による普通の「いぼ」や老人性の「いぼ」等の治療
2) レーザー治療
・低反応レベルレーザー治療:1993年(平成5年)2月以降
 とくに帯状庖疹後の神経痛や、通常の治療でてこずっている痒疹などの『慢性皮膚疾患』『しろなまず』『円形脱毛症』などの治療に応用
・高反応レベルレーザー治療:2000年(平成12年)6月以降
とくにアザ、シミ、ホクロの治療に応用、とくに2000年6月から大分県では始めての、九州では3番目のQスィッチ・ルビーレーザーを導入して、太田母斑という特殊なアザの治療を始めた。また、炭酸ガスレーザーも導入してイボやホクロの治療が容易になった。

4.新世紀に向けて理想の全身シャンプーをつくる(2001年1月)
 スキンケアの第一歩である皮膚の清浄、とくに入浴の問題は、温泉地・別府に住む人々にとっては切実な問題であり、常にわたしの脳裏から離れられない問題でした。
 過去3回にわたる入浴調査の結果を生かし、何時かは理想的なシャンプーをつくりたいと思っていましたが、2001年1月、東京の化粧品メーカーの協力を得て、オリジナルの全身シャンプー(ジェイ・エヌ全身シャンプー)をつくることが出来ました。
 ジェイ・エヌ全身シャンプーの特徴
・『あか』や『よごれ』は取るが、最後の脂気は残し、しっとりと皮膚を保護する。
・温泉のような硬水で使っても、普通の石鹸と違い、肌を荒らさない。
したがって、アトピーの人も安心して使える。
・普通の中性洗剤と違って、泡は分解しやすく、公害を残さない。

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