わたしの音楽性について思う
NO.526 2014/9/15

幼児期の思い出

 わたしは別府生れの三重育ちですが、小さい時は別府と三重の間を往き来していたようです。
 人の話によると、わたしは母にとくに厳しく育てられたようですが、そのような厳しさよりも、幼年時代のわたしに英語でホーム・スイート・ホームを、フランス語でマルセイユを口伝えに教えてくれた母の優しさの方が記憶に残り、その後何10年も経つにおいて現在も、なお不完全ながらこれらを口ずさむことができます。(三重時代の思い出)

 これは別府に帰ってからのことですが、わたしの家には、昔からスイス製(スウィツル製と言っていましたが)の蓄音機があり、よくレコードをかけて聴いた思い出があります。
 その時、どういうわけか、レコードボックスにつまっていた吉住小三郎の京鹿の子娘道成寺をよく聴いたものです。それで唄はともかく、曲だけは今でもよく覚えています。
 これは嘗て祖母のいとこに当たる人(三味線の師匠)がなくなるまで家に一緒におり、母もその関係で三味線をよく弾いていましたが、このような雰囲気がそうさせたのでしょう。
 
 その後小学校にあがる前、母が一時喫茶店をしていたときがあり、佐賀より職人を雇ってカステラやマルボーロをつくり、ブラジルコーヒーを取り寄せてお客にコーヒーを飲ませたりしていましたが、外人客もみえていました。その時よくにユーモレスクやジョスランの子守唄などをかけていたことを思い出します。 

 もう一つ、三重時代の思いでは、西宮神社の夏祭りによくお神楽を見に行ったものです。父親の解説付きでそれ以来神楽が好きになり、その後豊後神楽は勿論、熊本の波野神楽、高千穂神楽など見に行きましたが、わたしにとっては子供時代に見た豊後神楽がやはり心に残るもので、今でもお神楽の笛、太鼓の音が聞こえると、それだけで血が沸いてきます。

 このように三重と別府の間を行き来しましたが、中学時代は大分で過ごしました。

中学時代の思い出
高等学校時代の思い出

大分中学時代・・・音楽が好きで変声期の前はボーイソプラノで、中学1年の時、みんなの前でメンデルスゾーンの「胡蝶とひばり」を歌ったここがあります。上級生である吉村益信さんのピアノ伴奏で歌い、音楽の先生に非常に誉められ、「君は音楽学校に行きなさい」と言われましたが、帰って母に言ったところ、「今では遅すぎる」と即座に断られたことを思い出します。
 
また、卒業を前にして同級生のつくった詩に曲をつけたことがあります。
  
  <卒業にあたって>
      玲瓏照らす 陽光の    燦とかがやく聖丘に
      師弟と契り 友と呼び   水魚の如く交わりて 
      睦み来たりし 道はるか  二豊の健児 意気高し

高等学校時代の思い出

 戦時中(終戦前に近い)、最後の寮歌になりましたが、一年先輩の寮の総代の作詞したものに曲をつけたものです。勿論作曲は全くの素人で、単純なメロディーを五線譜に入れたに過ぎないものでした。戦後の混乱にまぎれて、わたしの手元には残っていませんが、思い出しては時に口ずさんでいます。
    
      すめら み国の 鐘なりて 
        ああ混濁の 世は明けぬ
      君のみことを かしこみて
        銃取る腕 力あり
      みこと奉ずる ますらおの
        若き瞳に 光あり

前橋時代の思い出

 皮膚科の医者になって一時群馬大学医学部皮膚科の助教授として前橋に赴任したことがありましが、その3年間はわたしにとって十二指腸潰瘍になるほど、精神的に厳しい時代でした。
 この頃、NHKテレビで「音楽夜話」という番組があり、ゲルハルト・ヒュッシュが中山悌一を相手に毎週「冬の旅」の指導をしていました。「皆さん、今晩は」ではじまる一曲一曲の指導は妙にわたしの心をとらえ、大学での厳しさをすっかり忘れて聴き入ったものです。
 そして、これがきっかけでドイツ歌曲、わけても「冬の旅」が好きになり、これに関するレコードを幾種類も買いあさりました。今ではこれがわたしの宝物になっています。
       
       ・ゲルハルト・ヒュッシュ
       ・フィッシャー・ディスカウ
       ・ハンス・ホッター
       ・テオ・アダム
       ・ジェラール・スゼー

新橋時代の思い出

 昭和38年(1963年)9月、群馬大学を辞した後、同年10月より昭和43年(1968年)12月までの東京新橋における5年間の開業生活は、全国理美容ネットワークにのった特殊な体験でした。 
 この頃、前のからす森通りにレコード屋さんがあり、この店で偶然見つけた一枚のレコードはとくにわたしの胸をうちました。
 ショパンのピアノ協奏曲第1番 ホ短調 で、マルタ・アルゲリッヒのピアノでクラウディオ・アバード指揮のロンドン交響楽団によるものでした。
 このときのアルゲリッヒが、現在アルゲリッチとしてこんなに有名になり、別府市民に親しまれる存在になるとは、その時夢にも思いませんでした。

別府に帰ってからのこと

 別府に帰って数年後より日本舞踊の稽古をはじめました。 そのきっかけは、別府市医師会で忘年会の幹事を引き受けると、何か踊らなければならないということを患者さんに打ちあけたところ、その日の中に先生が決まってしまったのです。花柳流の花柳幾雅美先生でした。
 それから約20年近く稽古が続きましたが、はじめは名取りになるための3つの課題曲からはじまりましたが、途中から「名取りになったら先生大変だ」という人の忠告があってそれは断念することにしました。
 黒田節、白扇、松の緑、雨の五郎、新曲浦島、越後獅子、夕月船頭、岸の柳、外記猿など色々稽古を受けましたが、いまでは人生劇場がわたしの十八番として残っております。 
 ところが、最近になって、色々整理しているうちに、もう亡くなった母が北海道時代に町内の集まりで黒田節を踊っている写真を見つけ出し、感慨にふけっているところです。




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