わたしの皮膚科医としてのルーツ
NO.548 2016/10/10


皮膚科医になって60年が過ぎましたが、今年の元旦(2016年1月1日)わたしは満90歳の誕生日を迎えました。
これを機会に、わたしが皮膚科医として歩いて来た道をふりかえり、
どうして皮膚科医になったのかそのルーツを探ってみたいと思います。

※ 幼年時代の思い出

 人の話によると、わたしは母にとくに厳しく育てられたようですが、そのような厳しさよりも、幼年時代のわたしに英語でホーム・スイート・ホームを、フランス語でマルセイユを口伝えに教えてくれた母の優しさの方が記憶に残り、その後何10年も経つ現在においても、なお不完全ながらこれらを口ずさむことができます。
 
 一方、父は小学生のわたしに昆虫採集の仕方を丁寧に教えてくれました。また、この頃たまたま父が学生時代に書いた顕微鏡のスケッチ画を何枚か見る機会があり、妙に感動したことを思い出します。このように、自然科学への憧憬は父より、感性の育みは母より受け継がれていることを今更のように思い出します。

 高等学校時代の後半、終戦後の1、2年間にあたりますが、わたしは動物学の先生のご指導で、余暇を利用して約70匹の「みみず」の解剖をしたことがあります。生殖器や盲嚢の形態を詳細にしらべ、比較解剖学の片鱗に触れて、妙に気を引かれたことを思い出します。  

※ 大学出時代の思い

 その後九州大学医学部へ進みましたが、一年の夏休み、解剖学教授のご指導で肩甲骨の計測をしました。教授のご意向で84体の計測の結果を小論文(英文)にまとめましたが、戦後の混乱に紛れて未発表に終ってしまいました。 
 しかし、骨の形が筋肉や関節の運動といかに関係が深いかを如実に知らされたものでした。

※ どうして皮膚科を選んだのか

 皮膚科医になって62年になりますが、わたしがどうして皮膚科を選んだのか考えてみますと、以上述べてきましたように、父から教わった昆虫採集をきっかけに、高等学校時代には「みみず」の解剖をしたり、大学一年の放課後には肩甲骨の計測をしたりして、自然にものを見る訓練をさせられてきました。
 また、わたしは一時、精神科を選ぼうと考えたこともありましたが、なぜ母校に入局しないで東京に出てきたか、その一つに経済的な理由がありました。
 東京逓信病院でインターンをするようになって色々考えた末、当時、中島病院事務長が大分県佐伯出身であったこともあり、事務長の紹介もあって当時有名皮膚科部長、小堀辰治先生の教えを受けることになりました。
 そして、入局以来病室の医局で机をならべ、四六時中わたしを細かく指導して下さった副部長の平出先生は、入院患者を極めて丁寧にみられる方で、早朝から色々一緒に検査をしたり、病歴を細かく書くことを教えられたり、患者さんが亡くなると、病理の先生と一緒に解剖に立ち会われるなど、皮膚科医として本当に全身をよく診られる先生に私は感化されました。

   Was ist das Schwerste von Allem?
    Was dir das Leichteste duenket,
   Mit den Augen zu sehen,
     Was vor den Augen dir liegt.

 これは数あるゲーテの詩の一つですが、わたしはこの詩が好きです。(すべてのものの中で最も難しいものはなにか、それは、あなたの前にあるものを見るという、最もたやすいと思われることであるという意味) この詩をはじめて知ったのは、丁度インターンの頃でしたから、あるいはこれが皮膚科医を志すきっかけになったかも知れません。
 また、わたしは特に皮膚と「こころ」の問題を考えていますが、前述のように一時精神科を志望したことと関係があるように思えてなりません。皮膚と神経とは発生学的にも外胚葉という同一のオリジンであることから、切ってもきれない関係にあることを今更のように思う次第です。

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